山鉾巡行も、いよいよ後半です。
十六番目は、山十番の”蟷螂山”
別名”かまきり山”と呼ばれます。
南北朝時代、足利義詮軍に挑んで戦死した、町内在住の公卿・四条隆資の戦いぶりが中国の故事”蟷螂の斧”のようであったことから、死後25年ごの1376年(永和2年)町内在住の渡来人・陳外郎宗奇が、四条家の御所車にかまきりを載せたのが始まりと言われています。
その後、再三戦火に遭いながらも巡行を続けてきましたが、1864年の元治の大火で大部分を消失し、昭和56年に117年ぶりに再興されました。
蟷螂山は、かまきりの足や鎌、御所車の車輪が動くなど、祇園祭の山鉾としては、唯一のからくり山です。
前懸・胴懸・見送は、羽田登喜男作の友禅です。
十七番目は、鉾三番目の”菊水鉾”
昨日、搭乗拝観させていただいた鉾です。
写真だと、サイズ感がいまひとつ伝わりにくいかと思いますが、大きさ。高さ共に迫力があるので、山鉾が出てくると湧きますね。
向けられたカメラの数が物語っています(笑)
町内に古くからあった井戸・菊水井にちなんで名付けられ、鉾頭には、金色の透かし彫りの菊花をつけています。
真木中程の天王座には、彰祖像を祀ります。
1864年(元治元年)の兵火以来焼失していましたが、昭和27年に88年ぶりに再興されました。
稚児人形は、菊の露を飲んで長寿を保ったと言われる枕慈童で、能装束の舞姿です。
唐破風作りの屋根で、鳳凰の懸魚を飾り、軒下には翠廉を掲げるなど、他の鉾とは異なっています。
昭和に入ってから、年々、前懸・胴懸などの装備を新調・充実し、”昭和の鉾”としての偉容を示しています。
ここで、一度巡行を止めて、車を通します。
こんな大きなお祭りなのに、全面通行止めにならない方が、逆に驚きだったりします。
十八番目の、山十一番”白楽天山”です。
山上は、白の狩衣姿の白楽天が、紫衣の道林禅師に仏法の大意を問うている場面です。
前懸は、トロイ戦争の場面を表した16世紀のベルギー製毛綴。
見送は、山鹿清華作の”北京万寿山図”の毛織錦です。
十九番目の山十二番・”郭巨山”
中国の史話・二十四孝の一人、郭巨の故事にちなみ、”釜堀り山”とも言われます。
御神体の郭巨と童子は、1789年(寛政元年)金勝亭九右衛門利恭の作です。
昭和58年から、装備を順次新調し、前懸・胴懸・見送は、上村松篁の原画によるもの。
前懸は、草図、胴懸は、花の汀図・春雪図、
見送りは、都の春図です。
二十番目は、山十三番”保昌山”
唯一、鉾町を訪問できなかった山です。
丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に取材し、保証が式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿を表しているため、明治初年までは”花盗人山”と呼ばれていました。
御神体は、緋縅の鎧に太刀をつけ、梨地蒔絵の台に勾配をいっぱい持って、捧げています。
山の故事にちなみ、宵山には縁結びのお守りが授与されています。
近年新調された前懸・胴懸は、円山応挙の下絵よる刺繍。
見送は、福禄寿・弁財天に唐子を配した綴錦で、1798年(寛政10年)の作です。
二十一番目は、くじ取らずの”放下鉾”
鉾の名前は、真木の天主座に放下僧(僧形の芸能者)を祀るのに由来します。
以前は、長刀鉾同様生稚児を載せていましたが、昭和4年以降、稚児人形を乗せています。
久邇宮多嘉王殿下より”三光丸”と命名された稚児人形は、鉾上で稚児舞ができる操り人形です。
前懸・胴懸は、花模様のインドやペルシャの絨毯で、
見送は、1828年(文政11年)西陣で織られたものです。
二十二番目、くじ取らずの”岩戸山”です。
鉾と同様、車輪をつけた曳山で、鉾柱の代わりに屋上に真松を立てています。
狩野永徳の描いた”洛中洛外図屏風”に、その姿が描かれています。
三体の御神体を飾り、胸に鏡をかけた天照大神、唐冠をかぶった手力男命、屋根の上には、国生みの神話に登場する伊弉諾尊が祀られています。
胴懸は、唐草紋様のインド絨毯です。
見送は、一部刺繍の、日月龍唐子嬉遊図の綴織です。
いよいよ、ラストの二十三番目に登場したのは、くじ取らずの”船鉾”です。
御神体の神巧皇后は、安産の神様とされ、皇后の神像には、岩田帯をたくさん巻いて巡行し、祭りの後、安産のお守りとして妊婦さんに授与されます。
舳先には、想像上の瑞鳥”鷁”を飾っています。
鉾の上には、神巧皇后と、磯良・住吉・鹿島の三神像を安置しています。
前祭では、唯一の船の形をしているので、迫力あります。
これで、23基すべての山鉾がスタートしました♪