Incredible INDIA 〜その12・アジャンター石窟群〜
2013年 06月 06日
早起きして、向かう先は、今回の旅のハイライトの一つ、世界遺産"アジャンターの石窟群" Ajanta Caves です。
ガイドさんとドライバーさんがお迎えに来てくれました。
アジャンターの石窟は、アウランガーバードから北東へ約104km。
車で2時間半程の道のりです。
デカン高原特有のテーブルマウンテンが続きます。
この辺りは、綿花やサトウキビの畑が続く、豊かな大地とのこと。
作物を加工する工場があり、その周りは経済的に豊かになるのだそうです。
確かに、立派なお家が。
こちらは、お店でしょうか。
ぼんやり外を眺めながら車に揺られてドライブ。
今日も40℃超と暑くなりそうなので、体力温存しておかないと。
休憩で〜す。
インドのシリコンバレーと言われる、バンガロールから来た団体さんが先にお着きでした。
日本で言えば、ヒルズ族?
畑の中の1軒家。
そして、こちらが、ト・イ・レ。
今回の旅、一番の山場でしたよ。ふぅ〜っ。
もちろん水洗ではないので、トイレに常備されている小さなポットに水を溜めて流しました。
(具体的な、おハナシですみません??)
こちらのお手洗い、個室のはじっこ、床に近いところに蛇口がついていて、地元の方は、備え付けのポットに溜めたお水でお尻をキレイにされているのだと思います。
水道のないところでは、水瓶がおいてあったりするのかも。
空港やホテルなどの近代的設備のトイレだと、それがシャワーになっているのですが・・・、時々洪水が起こります。
前回のインド旅では、大変な目に遭いました。
このお水の習慣、インドネシアあたり〜中東方面まで広く分布しているようです。
紙が貴重で、暑い場所ですから、理にかなった方法ですし、多分多くの日本人が思っているよりずっとずっと清潔です。
気を取り直して・・・出発です。
休憩して程なくすると、大きく迫り上った山が見えて来て、その反対側の谷を下りて行ったところが、アジャンタの石窟の入口です。
駐車場で車を降り、お土産屋さんが連なるところを抜けて行きますが、「帰りに寄ってくれ」アピールがものすごく、写真を撮るのもままならず・・・
(ちゃんと顔を覚えていて、帰りもしっかり声をかけられましたよ)
ちなみに、こちらの名産は、水晶などの石のようです。
環境配慮のため、エコなシャトルバスに乗り換えます。
またまた、外国人は二人きりの超〜アウェイな状況で、すでにほぼ満席だったバスに乗り込むと、「!!!」と、静かなどよめきが・・・
またしても、大注目されてるぅぅぅ。
チラ見されてるぅぅぅ。
バスを降りる際に、積極的な方に、「どこから来たんだ?」と聞かれたので答えると、その人と他の方々の間に「どこからだって??」「日本からだって!」・・・的な伝言ゲーム的な会話が。
(言葉わからないので、あくまでも想像です)
そんなに珍しいかな、外国人?
それとも、Tちゃんと私のマダム〜な雰囲気のせいかしら? (・・・すんません・・・)
アジャンターの石窟は、紀元前1世紀頃の前期窟(上座部仏教期)のヴィハーラ窟と、紀元5世紀の後期窟(大乗仏教期)のチャイティヤ窟に分けられます。
アジャンターを有名にしているものは、なんといってその素晴らしい壁画です。
インドの絵画は、古代から発達していたことで知られていますが、高温多湿の風土のため、残っているものは皆無に近く、唯一の例外として残っているのが、アジャンターなのです。
これらの壁画は、中央アジアや中国、日本の古代仏教絵画の源流ともいえる貴重なもの。
1983年に世界遺産に登録されています。
豆のスナックを売る人。
ここからは坂道なので、輿に乗ることも出来ます。
いまひとつ、商売熱心さに欠けるけど・・・
階段を上がり・・・
つづら折りの坂道を登ります。
気温40℃近いので、かなりハード。
ガイドさんは、多分70歳くらいの方で、足が少しお悪いようなので、なんだか申し訳ない気持ちになってしまいました。
こんな暑い季節に観光に来ちゃって・・・
坂を上りきると、石窟が見えてきましたよ〜♪
アジャンターの遺跡は、馬蹄形のワーグラー渓谷に並んで、全部で30あります。
真ん中あたりの5つの簡素な石窟群が、前期窟。
※写真は模型です。
石窟と石窟は、すぐ横に並んでいるので、エローラの石窟に比べると見学しやすい。
紀元前2世紀頃に仏教僧たちが雨期の雨を避けて修行を続けることができるように、石窟僧院ヴィハーラと塔院チャイティヤを彫ったことが石窟寺院の始まりです。
この地を選んだのは、南北を結ぶ交易路が近くにあり、食料や物資の入手がそれほど困難でなく、交易路から適度に離れていて、修行や瞑想を妨げられる心配がなかったからであろう、と考えられています。
前期の石窟群は、簡素で内部には装飾もさしてなく、まだ仏像という表現がなかったので、ストゥーパを礼拝対象として刻みだしています。
僧侶が研鑽を重ねるかたわら、交易路からは一般参拝者も礼拝供養に訪れていました。
紀元5世紀に入ると、当時中央インドを支配していたヴァーカータカ定刻の信仰に厚い家臣により、財と威信をかけて開窟が再開され、より荘厳で豪華な石窟が作られるようになります。
が、まもなく後援者ヴァカータカ帝国の崩壊に伴う戦乱のため、放棄されてしまうことになります。
職人や僧侶までもが渓谷から姿を消し、寺院群はジャングルに飲み込まれて、それから1000年以上もの間、忘れ去られてしまうのです。
1819年、マドラス(チェンナイ)駐屯のイギリス騎兵隊士官ジョン・スミスが狩の途中、虎に襲われて渓谷に逃げ込んだ際に発見されました。
彼が、発見した時、石窟はコウモリのすみかになって荒廃していたそうです。
いざ! 待望の石窟へ〜!